IMG_4477スポーツを観戦するとき、普通は贔屓のチームや選手を応援します。

興奮しながら観戦して、勝てば嬉しいし、負ければ悔しい。 
まあ、負けてもよくやった、ということもあるし。

あまり好きじゃなかった選手でも、贔屓のチームに入れば途端に応援するようにもなるのも不思議だなぁ。

ところが国際試合になると、今度は自動的に日の丸背負った日本チームを応援することになります。

好きなチームとか贔屓の選手とかいう感覚とは、ちょっと違いますよね。
なんていうか、ある意味好き嫌いとか関係ない自動モードというか。

それだけじゃなくて、外国で活躍する日本人選手も応援しちゃいます。
たとえばイチローなんか、日本にいたときは別になんともないというか、興味もなかったのに。
なのにシアトルのセイフィコスタジアムまで応援に行ってしまいました。

昔はF1だってよく見てたのに、日本人ドライバーがいなくなってからはまったく興味なくなってしまったしなぁ。

テニスなんかは、錦織以前は、応援するとかいう行為とは無縁の観戦をしてました。
そういうもんだと思ってました。

ラグビーのニュージーランドvsオーストラリア戦、世界最高の試合です。
もちろん凄い試合で、面白くて大興奮だけど、別にどっちが勝ってもいいわけです。
もしかしたら、こっちのほうが純粋にそのスポーツが好き、ということなのかもしれないけど。

日本のチームを、日本人選手を応援するのは、日本人だから?
でも別に面識があるわけでもないし、なんの利害関係もないし。
それでも無条件で応援しちゃうのはなぜなんだろうと思います。

ラグビーなんかだと、桜のジャージを着ているのは外国人も多いでしょ。
でも、彼らがジャパンなんです。
そしてなんの違和感もなく自然に応援してます。

自分でも、どういう精神構造というか、しくみなのかなぁと思ってしまいます。

そしてそういうシーンにおけるシンボルとしての日の丸にも、全く違和感がありません。

でもそれなのに、国際的識別の標識、インターナショナルなシンボルとしてではない日の丸になると、途端に抵抗が生まれてしまうのはなぜなんでしょう。

そもそも国旗というのは、船舶の識別標識から始まったとも言われています。
帰属する国を識別、区別、認識するためのものです。
そもそも旗を上げるという行為は、その旗印が象徴する自分たちの存在を、主義主張も含めて他にアピールするためのものですし。

でも、日本国内で、ここは日本なんだから、識別する必要も存在をアピールする必然性もないわけで。
これがワシントンの日本大使館だったら、ここは日本の大使館だぞ、と日の丸立てるのは、これは当然です。

だから、卒業式とかで飾られる日の丸は、きっと国際識別の標識ではないんでしょうね。
共同体への帰属意識のシンボル?

それよりも校旗とか区の旗なんかのほうが、帰属すべき地域共同体のシンボルとしてはずっとリアリティがあると思うし。

たとえば社会主義国では、共通のシンボルは鎌と槌です。
多分これは、国家への忠誠というよりも、社会主義への忠誠や帰属を求めているようにも思えます。
おそらく概念的には、国家よりも上の存在として主義がある、みたいな。

日の丸も、もしかしたら本来は国家よりももっと上の概念、大和民族の文化や歴史、そういうものの象徴なんじゃないかとも思うわけです。
あるいは、国家を越える概念としての、祖国。
それは、自らの人としてのルーツです。

もしかしたら私には、国家という一時的な概念が、かけがえのない祖国を脅かしているというような意識があるのかもしれません。

戦争に敗れて国が滅んでも、祖国は永遠です。
徳川幕府が薩長連合に敗れても、大日本帝国が連合国に敗れても。

ところで朝鮮労働党の旗ですが、その鎌と槌に、更にペンが加わります。
なんと、農民と労働者と知識人なんですねぇ。
ほう、カンボジア共産党=ポルポト政権に於いては、抹殺の対象だった知識人ですか。

はやくその通りの国になって欲しいものですねぇ。

ところで、ベランダのトマト、17日目にして、もう花が咲きました。
植物の生長は、すごいです。
われわれ人類も、見習いたいものです。

写真1

データ
グレーのダンガリーシャツ:無印良品
変わりヘンリーネックカラーの黒い長袖Tシャツ:G.U.
グレーのストレートデニム:UNIQLO
白いデッキシューズ:コンバース